多かれ少なかれ、子育てに鬱は付き物!自分を責めない子育て模索の毎日。

【赤ちゃん育児体験談】多かれ少なかれ、子育てに鬱は付き物!自分を責めない子育て模索の毎日。

【自分の年齢】(赤ちゃん育児の当時)
22歳
【自分の職業】(赤ちゃん育児の当時)
専業主婦

【夫の年齢】(赤ちゃん育児の当時)
20歳
【夫の職業】(赤ちゃん育児の当時)
雇われ料理人

【住んでいた住宅と環境】(赤ちゃん育児の当時)
住まいは団地。
夫・自分・子供。
環境は住宅街。
周りの家とは特に繋がりは無し。

【里帰り出産について】
していない。
自身の母が数日通ってくれた。





【性別】
男の子
【兄弟姉妹】
初めて生んだ子供
【赤ちゃんの性格】
産まれた当初はそうでもなかったが、2・3カ月した頃から夜泣きがひどくなった。
短時間で寝起きを繰り返していたので、定期的にぐずる時間があり、都度抱き上げてゆすりながらあやしていた。
人見知りはかなり強く出ていた。




【寝かしつけの工夫】
抱き上げてゆすると少し落ち着くが、一日のうち一度は全く泣き止まず、こちらが悲しくなるようなときもあった。
6カ月くらいした頃、背中をさすれば眠くなるという事がわかり、どうしてもぐずついてしまう時は、背中をさすって眠りにいざなっていた。




【おむつ】
病院で進められたパンパースをはじめ使用していたが、2か月過ぎた頃からグーンやムーニーマンも使用していた。
ムーニーマンは安売りしている事が多かったので、大量に買って使っていた。




【母乳とミルク】
基本的には母乳のみ。
7カ月頃引っ越す事となり、その時はたまにミルクを上げていた。
ミルクは森永の個包装になっているものを使用したり、キューブ状になっているものも使用した。
キューブ状のものは、溶け切ったかが分かりにくく、外出時以外は使わなかった。




【離乳食】
お食い初めは100日で一度行い、そこから離乳食をスタートさせた。
はじめはお粥をすりつぶしたもの、大人が食べる味噌汁用のジャガイモを味付けする前に取り出してつぶしたもの。
フルーツの離乳食が始まった時イチゴがすごくおいしかったみたいで、いつもより多く食べていた。




【大変だったこと】
〇夜泣きをするが、旦那は仕事で家にいないので、こちらがノイローゼになりそうだった。
〇肌が弱く、乾燥で肌がボロボロになっていた。
病院で定期的に保湿の薬をもらっており、近所に大きい大学病院しかなかったので、赤ちゃんを病院に連れていくのが怖かった。
〇免許を持っていなかったので、基本歩きで移動するしかなく、夏に乳母車で移動していた時、偉く不機嫌なので背中をさわると汗でぐしょぐしょに。
脱水症状が怖くなり、いつでも水分は持っていくようになった。

【具体的に言うと・・・】
2・3カ月の頃。
夜泣きが一番ひどかった時。
旦那はほとんど家にはおらず、居ても仕事で疲れていびきをかきながら寝ている。
私のストレスがかなり溜まっていたみたいで、寝返りを打った旦那に泣きながら訴えた。
だが、旦那は疲れて話を聞いていながら寝てしまう始末。
子育ては旦那には頼れないんだと、心の底から思って悲しくなった覚えがある。
7カ月の頃。
旦那の転勤で他県に引っ越すことに。
引っ越し先はかなりボロボロの家で、横には資材置き場があり、大家さんが勝手に庭に入ってくる。
幼い頃から団地住まいになれていた私はそんな環境で子供と二人で放置されているのがつらくて、そのうち定期的に電車で実家に帰るように。
ただ、泊りは無理だったので、夜に私の両親が車で送り届けてくれていた。




【当時の心境】
かなり精神的には参っていたのだが、周りには「自分の子どもに対してストレスが溜まっている母親」とは思われたくなくて、「全然大丈夫!」と、旦那にも話していた。
ただ、限界を超えてしまい勝手に泣いたりわめきたくなったり、物に当たりたくなったり・・・かなり不安定にはなっていた。
ただ、子供を抱っこしている時に子供が初めて笑ったことがあって、その時感動で涙が出るほどうれしかった。




【夫の手助けと関わり】
私が専業主婦だったので、旦那が稼いできて私が家のことをするという昔ながらの役割だった。
旦那は子供を大切にはしてくれたが、仕事が今でいうブラック企業だったので、家に帰ってから泥の様に眠っていた。
そんな中で「もっとこれをしてほしい」なんて言えず、でも私も限界で、今思えばもっと話し合ったりするべきだった。




【工夫と便利グッズ】
「紙おむつは使わない方がいい」とか、「ミルクより母乳じゃないとダメ」とか、「怒ってはいけない」とか、母親として購入した本や情報があふれていたが、あまりにストレスがひどくなり、「このままでは子供を傷つけてしまう恐れがある」と思い、世の中の手に入る金額の範囲で便利な物は、自分で使っていいと思ったら使うようにした。
そのグッズでは、キューブ状のミルク・離乳食用の弁当・パンツオムツ・子供のいたずら防止ロック・角カバーなど。
子どもをあやしている時に、母親の声が聞こえた方が落ち着くと聞いたが、子供に話しかけているのが悲しくなってきたので、自分の好きな歌を歌いながらあやしていた。




【強烈な思い出】
子どもの肌が弱かったのだが、病院に定期的に通っていて保湿の薬をもらっていた。
だが、病院も「この薬と同じ成分のモノが百貨店にあるので、ここでそれを買うようにして下さい」と言われ、もう病院に来るなと言われた気がして怖くなった。
病院で薬をもらえば幼児医療で安く薬をもらえていたが、百貨店で言われたクリームを探すと、少ししか入っていないチューブの物が3000円くらいした。
百貨店自体も電車で20駅くらい移動しないといけなかったし、精神的にも金額的にもきつかった。
ただ、その時に子供の顔をみると鼻の周り・顎・ほっぺと、真っ赤になってガサガサになって、とても痛々しくて、そんな状態で私の顔を見て笑顔になったり何か話しかけようとしている様に見えて、自分が情けなくなった。




【後悔してること】
旦那の仕事の都合で引っ越した時、私はメンタル的にかなり参ってしまっていたので、公園に連れていくことをほとんどしなかった。
すると、あまり外で遊ぼうとしなくなり、幼稚園になるまで友達らしい友達が出来なかったのは、本当に申し訳なかった。




【嬉しかったこと】
私の弟が家に来て赤ちゃんの面倒を見てくれた時、私が弟を信頼しているからか、全く人見知りをせずになついてしばらく遊んでもらっていた。
その間に家の用事をさせてもらっていたが、弟も長時間赤ちゃんの面倒を見ることはできず、気が付けば弟が座り込んだ横に赤ちゃんがへばりついて、弟の装飾付きのベルトを真剣に触っていた。
光物がついていたので、向きの加減で光るのが不思議だったのか、まるで研究者のような表情でベルトの端を見ているのが、なんだかすごくかわいかった。




【現在】
子どもはもう15歳になった。
3年後に妹が生まれて、初めてお兄ちゃんとして祖父母の家に私の出産入院中にお泊りをした。
その時、お泊り前とお泊り後で顔つきが全く変わり、かなりしっかりとお兄ちゃんになったと感じた。
今や大学受験を見据えて日々勉強。
文句を言いながら自分の行きたい大学の為に頑張っている。
旦那は、2年前に離婚した。
もちろんいろんな要因があるが、子育て中の旦那の行動もその要因の一つ。
夫への感謝は、やはり私一人では子供は産めないし、私を母親にしてくれたのは旦那のおかげで、それは感謝している。
・・・が、それだけ。



【当時の自分へのアドバイス】
もしあの時の私に何か言えるのなら、「すごく頑張ってる!すごい!子供が喜んでるんだから、それは合ってるんだよ!周りがなんと言おうと、あなたが世界で一番子供のことを大切に思っているんだから、あなたがいいと思ったことは、絶対いいんだよ!」赤ちゃんと一緒に泣いてもいいし、一緒に笑ってもいいし。
お母さんも1歳なんだから、一つずつ覚えていこう。」という。