育児体験談一覧【強烈な思い出】初めての赤ちゃんで女の子・ママ26歳〜28歳(26人)

育児体験談一覧【強烈な思い出】初めての赤ちゃんで女の子・ママ26歳〜28歳(26人)


【強烈な思い出】
ワンオペ育児で1人で沐浴をしていた時、本当はだめですがお風呂の蓋の上にベビーバスを置いて入れていました。
娘は気持ちよかったのがベビーバスの中でうんちをしてしまい、焦った私は膝をお風呂の蓋にぶつけてしまいズレてお風呂の中に蓋が落ちました。
咄嗟に娘を抱き抱え怪我などはなかったのですが、そのお湯を全身にかぶった私はうんちまみれでした。
でも不思議と汚いとは感じませんでした。
出産前まで潔癖症で汚い事が大嫌いな私でしたが、愛する娘のものならなんでも愛おしいと感じられ、母になった喜びと自分の成長を感じました。
【当時】
26歳・専業主婦




【強烈な思い出】
赤ちゃんが、初めて嘔吐下痢になった時が今でも忘れられません。
生後3ヶ月首がすわるか座らないか頃でした。
授乳後機嫌が悪く泣きやまないので、立って抱っこしたら私の胸に向かって大量に嘔吐しました。
ゲップが出来ていなかっただけかと思い、白湯を飲ませたら更に嘔吐してぐったりしていました。
初めての経験で、夜中だったので相談ダイヤルに連絡。
対処法を教えてもらい翌日病院に朝1番に行くことになりました。
小さい体で苦しんでいる我が子を見て、胸が苦しくなり変わってあげたいと思いました。
急変してはいけないと思いその夜は寝られませんでした。
娘は、その後良くなりましたが私が次はそのウイルスをもらい意識朦朧の中、育児したことを今でも覚えています。
子供のウイルス強すぎるし、病気の中でも育児をするお母さんは本当にすごいなと思いました。
【当時】
26歳・専業主婦




【強烈な思い出】
里帰りから、アパートに戻ってき時の壮絶感。
絶望感。
不安感。
もう、精神的に辛かった。
何が辛いというきっかけは自分でも分からず、ただただ、不安で不安で仕方なかった。
夫は、朝早く夜も遅くまで仕事をしていて、頼りにはできず、親も車で8時間かかる場所にいるため頼る人がいなくて辛かった。
そんな時でも、子供はニコニコ笑っていてそれだけで癒されて、頑張れた。
夫に言っても理解しているのかしていないのか、分からず男の人はほんとに1から10まで説明しないと分からないんだな。
と思った。
辛い時は、実家に電話して心を落ち着かせて過ごしていた。
【当時】
26歳・育児休暇中




【強烈な思い出】
もともと予防接種の時など大泣きする時に、初めに泣き始めてから息を吸うまでの時間がすごく長かったので、かかりつけの先生や看護師さんに心配されたりしていました。
ネットで調べると、泣き入り引き付けというものがあるらしくて、うちの子はもしかしたら泣き入り引き付けを起こすかもとずっと心配していました。
一歳を過ぎたころ、実家で母に抱っこされたときに、大泣きして泣き入り引き付けを起こしました。
顔が真っ青になり全身が固く硬直して、呼びかけても返事をせず白目を向きました。
私も母もパニックになり、慌てて救急車を呼びました。
事前にネットで調べて知ってはいましたが、本当にびっくりしました。
そのまま横向きに寝かせると落ち着いてきて、救急隊員さんが来られたころには意識を取り戻しました。
【当時】
26歳・専業主婦




【強烈な思い出】
タオルのタグなども好きな娘。
買い物中に仕切りに私の服を引っ張るのでなにかと思ったら、ニットを裏表に着ていてタグが丸見えになっていた。
誰も気がついていないことを祈りながら爆走してトイレで着替えたが、その後しばらく恥ずかしくてトイレから出られなかった。
喋って教えてくれたらどれだけよかったか。
裏表に来ていることも気が付かないくらい疲れていたのかもしれないが、その時以来出かける前に必ず鏡を見るようになった。
一歳の誕生日に赤ちゃん用のケーキを買ってきた。
ローテブルの上にケーキを置いたままお皿を取りに行ったらその一瞬でケーキが破壊されて散らばっていた。
子どもがつかまり立ちで手を伸ばしたらしく色々ベッタベタになった娘が笑顔でこちらを見ていた。
うん、しょうがない。
【当時】
26歳・専業主婦




【強烈な思い出】
旦那の実家に、夏に行った時です。
ちょうど温暖化になったころで、東北の方でエアコンなどありません。
そこで1週間ほどすごさなくてはならず、暑くては泣き、泣き疲れて寝るの繰り返しでした。
体力も暑さで奪われ、子供も私も調子を崩してしまいました。
予定より早く帰りたかったのですが、旦那はそれをOKしてくれませんでした。
哺乳瓶を煮沸消毒しても義母から「する必要ないと思うけどね。
死ぬわけではないし」
と言われる始末。
それでも私の顔を見ると、ニコッて笑ってくれるんですよね。
だから子供に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
最後はフラフラの状態で、自宅に帰宅しました。
翌年も行くと言ってきた旦那。
私は、一切行かないと主張しました。
このことからあってから旦那の親にあったとしても、旦那の家にとまることはありませんでした。
【当時】
26歳・専業主婦




【強烈な思い出】
全く知らない人が勝手にベビーカーに乗せていた我が子を抱きかかえて行こうとした。
嘘みたいな話だが、本当に肝が冷え切ったし今でも思い出すたびに怒りが収まらない。
私が一人でベビーカーに乗せて散歩していた時に信号待ちしていたら、いきなり知らない人が覗き込んで抱き上げようとしたので、急いで避けたがベビーカーをつかまれて身動きが取れない状況になった。
たまたま通りがかった人が様子がおかしいことに気づいて声をかけてくれたので事なきを経たがすごく怖い思いをした。
子どもは泣きもせずじっとしていたので驚きすぎてそんな状態になったのかもしれない。
もしあの時誰も人が来なかったらどうなっていたんだろうかと思うとゾッとする。
その後、警察にもいって話をしたら似たようなことが何件かあったらしく見回りを強化しているがそれらしき人の見当がつかない状況だということを知り、違う区に引っ越すことにした。
【当時】
26歳・専業主婦




【強烈な思い出】
育児ノイローゼ気味になっていたこと。
1歳半頃イヤイヤ期が始まり、何か経験になるようなことをしようにも何がいいか分からず、家で向き合う日々に疲れてしまっていた。
保育園に預けることはかわいそうだと3歳児神話にとらわれていたこともあり、どうしたら分からなかった。
でもこれではダメだと思い、同じ月の生まれの子どもを持つママ友や市の相談センターで話を聞いてもらい、子どもと通えるところに就職することを決めた。
久しぶりの社会にとても不安を感じていたが、日中大人と話せること、自分だけで抱え込まなくて良くなったことで、気持ちに余裕を持って子どもと向き合えるようになった。
【当時】
26歳・専業主婦




【強烈な思い出】
自転車のハンドル部分に子供乗せ用をつけていました。
ちょっと手を離した間に倒れてしまつい、倒れた方に玄関のドアがあり、昔ながらのすりガラスのドアに赤ちゃんが突っ込んでしまい顔をガラスで怪我をしてしまったことが強烈に覚えています。
赤ちゃんはもちろん大泣きで、どこの病院に行けばいいのが分からず私はあたふたしてパニックになってました。
すぐに病院へ行きましたが、パニックになっていた私は違う病院の診察券をだし、その病院の診察券は忘れてる状況でした。
傷は深くなく消毒だけで済みましたが、私の不注意でこんなことになってしまいかなり落ち込みました。
もちろん主人にも凄く怒られました。
ヘルメットをしていて本当によかったです。
それからは自転車から手を離さない、目を離さない、当たり前のことですが気をつけました。
【当時】
26歳・サービス業(育児休暇中)




【強烈な思い出】
子供が初めて熱を出した時のことは忘れられません。
家族で仕事の都合もあり実家に帰省をしていた時のことです。
お昼寝が終わった時に呼吸が荒いのと手足が異常に冷たかったので熱を測ったら高熱でした。
初めてのことだったのでどうしようと焦りましたが夫が落ち着いて病院に連絡をしてくれて、タクシーを呼ぼうとしましたがタクシーが捕まらずに困りました。
結局寒い中歩いて病院に行き診察をしてもらいましたが熱もあるなか寒いところを行き来するのもかわいそうでした。
お薬をもらい飲ませると落ち着きましたが、冷静に対応してくれた夫や助けてくれた両親に感謝です。
【当時】
27歳・専業主婦




【強烈な思い出】
産後の1ヶ月検診の日、産院で検診が終わって支払い待ちのときに助産師さんが赤ちゃんを私のところに連れてきて、私がお財布など探していた途中だった様子をみて、赤ちゃんここに置いとくねと地べたに置かれたこと。
せめて数歩歩けばベビーベッドがあったのに、わざわざ床に置かれたことが許せず、大事に扱われないことに悲しみが強く、大きめということもあり、可愛いとも言われず笑われていました。
初めて出産した子供だったのに粗末に扱われたことにより私のメンタルが崩れる原因にもなりました。
また、ショッピングモールで買い物をしていたときに、車椅子を押していたご婦人から、私の赤ちゃんをまじまじと見て、可愛いと言うわけでもなく、これからが大変ね。
と1言ボソッと言われ去っていき、初めての育児で不安だらけで日に日に楽になっていくからと実母に励まされていたところにさらに不安を煽られてしまい、泣いてしまいました。
【当時】
27歳・専業主婦




【強烈な思い出】
生後4ヶ月頃、ひな祭りで義両親を家にお招きしてお祝いしていたが、朝から子供の機嫌がどうも悪かった。
授乳してもダメ、オムツをかえてもダメで、ずっと抱っこ状態だった。
見かねた義母が、私に任せてと言い抱っこを代わって縦抱きでゆらゆらとし始めた途端、子供が嘔吐。
せっかくの義母の綺麗目ワンピースは、肩から背中にかけて嘔吐物でしっかり汚れてしまった。
義父は明らかに衝撃を隠せず、とりあえず義母のワンピースを必死でふきふき。
義母は、大丈夫よ?と私に気を遣わせないような素振りで、内心申し訳ないやら子供の体調が心配やら。
結局その後子供は熱を出し、数日後突発性発疹と診断されたのだった。
【当時】
27歳・会社員(育児休暇中)




【強烈な思い出】
一歳を過ぎてから断乳を始めました。
産まれてからずっと完母だったので、卒乳をするのはかなりの時間と労力を必要とするだろうと思っていたのですが、泣いたのは三日目までで、それ以降は何事もなかったようにすんなりと寝てくれました。
産まれてからずっと、授乳をするのが当たり前だったので、それが急になくなった時は、少しめんどくさいと思っていた授乳も、この子の人生のほんの一部の時間だったのだと思い、とても寂しくなったのを覚えています。
卒乳をしてからは、旦那に子供を預けたり、寝かしつけを頼んだり、私は、寝かしつけをしてもらっている間にお酒を飲んだりと、自分の時間を持てるようになり、とても心に余裕ができたと思います。
【当時】
27歳・退職




【強烈な思い出】
忘れられない強烈な思い出は、予防接種での病院の待合室で、うちの子だけがずーっと泣いていたことです。
別の場所に行こうとしたら、病院の外に出ないでくださいと言われて、泣いている我が子を一人あやしながら順番を待ち続けたのが辛かったです。
おまけに、待合室にいた小学生ぐらいの男の子に「赤ちゃんなんでそんなに泣いてるの?」と言われてしまい、いたたまれなくなりました。
早く順番がきて、早く家に帰りたいとずっと思っていました。
周りのお母さんたちが見て見ぬフリをしているのもわかったし、恥ずかしいやら泣きたいやら、とにかく辛かったです。
【当時】
28歳・主婦




【強烈な思い出】
離乳食で初めて納豆を食べさたときの子供の顔が、鮮明に記憶に残っています。
(もちろん写真もすぐに撮りましたが)うちの子はママがあーんとすれば、何も疑うことなく口を開けるのですが、納豆を口に入れた瞬間、不味かったのか、まるで般若のお面のような顔をして、ゴックンもモグモグもできずに、納豆が口からそのまま出てきました。
無理に食べさせるのは可愛そうなので、あれ以来まだ納豆を挑戦させてはいません。
しかし、最近は私が納豆ご飯を食べていると、ジーッと見て興味を示しているような気もします。
納豆を美味しいと食べれる日は来るのでしょうか。
楽しみです。
【当時】
28歳・専業主婦




【強烈な思い出】
1ヵ月検診で心雑音を指摘され、精査の結果、中等度の心房中隔欠損と診断されました。
診断を聞いた直後は、思わず涙が出ました。
隣にいた主人がは気丈に主治医の話を聞いてくれました。
その後は、将来的に運動制限等のリスクがでるか、予後や治療法などはあるか、完治するか、など様々なことを調べましたが、目の前にいる我が子に一生懸命関わることが大事だと、気持ちを切り替えながら子育てをしました。
この病気でとてもかわいそうだった思い出は、RSウイルス予防のシナジス注射の摂取です。
流行シーズン中、月に1回太ももに太い針をさすのですが、大人でもとても痛い注射らしく娘も大泣きでした。
病気がなければ摂取しなくていいのに、と強く思った記憶があります。
3歳になってすぐの検査で完治といわれたときは本当にうれしくて涙が出ました。
主人をはじめ、両家の両親も大喜びでした。
【当時】
28歳・専業主婦専業主婦




【強烈な思い出】
私の持病の影響で、産まれてすぐNICUに連れて行かれてしまったのが衝撃でした。
コロナの影響で夫の立ち会いはできませんでしたが、産まれて面会ができたので来てくれましたがその時にはもう我が子はおらず、夫と二人で静かな時間(30分ほど)を過ごしました。
謎でした。
その後も、私の持病のせいで退院が伸びそのことを申告された時はナースステーションで号泣でした。
誰よりも明るいママで通っていたので、かなり色々なひとに慰められました。
その後、順調に退院ができたのに一ヶ月健診でまたも私の持病の影響が出ているとのことで再度入院。
我が子に申し訳なく朝まで泣きました。
自分は平気なのに我が子が管まみれにされている姿が本当に心を抉られ辛かったことが今でも忘れられません。
夫はいい意味でも悪い意味でも穏やかで鈍感なので、恐らく状況を理解していなかったのかお医者さんの前では常にぽやーっとしていました。
【当時】
28歳・主婦




【強烈な思い出】
コロナ禍での出産ということもあり、入院中は面会が旦那さんのみだったので退院してから自分の両親や祖父母、義理の両親に初めて娘を見てもらった時。
それぞれの驚いたような嬉しそうな笑顔は今も強烈に思い出として残っている。
抱っこするときのみんなのドキドキ感や、赤ちゃんに対しての目が細くなる表情に私も嬉しくなったし孫(ひ孫)を見せることができてよかったなと心から思った。
あとは新生児期の寝ている時の無条件に笑う表情は、どんなに睡眠不足であってもずっと寝顔を見ていられた。
この子が自分の子どもという実感がなかなか湧かなくて寝不足なのにずっと見ていたことがある。
【当時】
28歳・看護師(育休中)




【強烈な思い出】
スーパーへ買い物に行ったとき、ピンクの洋服を着せているのに・・・おばあさんから「男の子かな?」と言われたことが、とてもショックだったことを覚えています。


それをママ友に話すと共感してもらえたので、ちょっと安心しました。
それからはヘアピンもするようになり、自分でハンドメイドで作るようになりました。
今でもハンドメイドを続けているので、娘にもおばあさんにも感謝ですかね。

今はコロナってこともあって、なかなか気軽に声をかけられる環境ではありません、その点は何年か前に出産していてよかったのかな、、と今なら思います。
【当時】
28歳・専業主婦




【強烈な思い出】
初めて寝返りができた瞬間です。
赤ちゃん自身も「できた!」というなんとも言えない表情だったのを今でも覚えています。
ちょうど夫が家にいるときで、「もう少しで寝返りできそう。」と話していたときで、ちょうど動画を撮影しているときでした。
嬉しさと感動で大きな声で喜びを叫んでいたと思います。
家族みんなで、小さな喜びを分かち合うことが出来た瞬間だったので、感動して涙が出たのを覚えています。
子どもを抱きしめて、夫と抱き合って、素敵な瞬間でした。
その後、その時の動画を両家の祖父母に見てもらって喜んでもらった感じでした。
【当時】
28歳・保育士(育児休暇中)




【強烈な思い出】
初めて単語で「まま」と言えたことです。
「はーい」と返事をしてあげると嬉しかったのかニコニコ笑って何度も「まま、まま」と繰り返して呼んでくれるようになりました。
その後夫は「ぱぱ」と教えていましたが、なかなか言えずしばらく「まま」と呼ばれていました。
だんだんと話せる言葉が増え、今では「まま」「ぱぱ」「ばぁば」「じぃじ」と言えますが昔は大人はみんな「まま」でした。
泣いてばかりの頃は、子供に話しかけるのもつらかったけれど、話しかけ続けていればいつかその結果が出るんだとわかりました。
一番最初に呼んでもらえたのがとても嬉しくて、大変なこともいっぱいあったけれど、ずっと育ててきて本当に良かったと思えた瞬間でした。
【当時】
28歳・病院事務




【強烈な思い出】
嫌な思い出ですが、液体ミルク事件があります。
液体ミルクは粉ミルクと比べて効果なのですが、すぐに赤ちゃんに飲ませる事ができるので便利で使っていました。
でも、開けたら、残して保存する事は出来ないので、使うタイミングが難しいのです。
そんなときに、昼間、1人で赤ちゃんといるときに、どーーーしても泣き止まずに、やむを得ずに液体ミルクを開けて赤ちゃんにあげる事で、なんとか泣き止むんだ日がありました。
まだ月齢が低くて、全部は飲み切ることができませんでしたが。
私は赤ちゃんが泣き止んで寝てくれたので、残ったミルクのことはどうでも良かったのですが、会社から帰ってきた主人が、残った液体ミルクを見て一言「もっとタイミング考えて使ってよ、高いんだよ」と。
今では主人にも悪気はかったと分かっていますが、この一言は一生忘れないと思います。
【当時】
28歳・専業主婦




【強烈な思い出】
支援センターで遊んでいたとき、子供用の椅子からこけたので見てみると、口角から大量出血。
服もかばんも血まみれ。
子供椅子からだし、いまだになにが原因でそんなに出血したかわからず。
とりあえず小児科かけこんで消毒。
口角だから口を閉じていたら傷跡はわからないが、いまだに傷跡残っていて治らず。
女の子なのにかわいそうなことしたと思いつつも、原因不明で同対策したらよいかもわからず。
それからもこけてすぐ口から血を出している。


顔からこけてたんこぶも何回か作ってるし、まだまだ目が離せないなという感じ。
子供のけがは本当に血の気が引く。
【当時】
28歳・主婦




【強烈な思い出】
子どもが胃腸炎になり、朝起きて母乳をあげ着替えたところで5回吐乳。
着替えさせるも新たにまた吐乳。
初めての病気に慌てながらも病院に行くと胃腸炎だと判明。
帰宅後も水様便を勢いよく飛ばし、床一面に水様便を巻き散らかしていました。
その後、祖母→伯父→曾祖母→母→父の順番で子どもの胃腸炎をもらいアウト。
特に旦那が1番酷く39.9度の発熱があり、コロナの可能性もある為PCR検査を受け、結果が出るまで逆隔離。
その間、完全に私ひとりで面倒を見ていたり外に出られなかった為、気晴らしも出来ず密室に2人きりと発狂しそうになりました。
【当時】
28歳・会社員(育休中)




【強烈な思い出】
昼間やっと寝たと思ったら義理の母と義理の姉と義理の姉の幼稚園児の子供が突然遊びに来たりしたことがよくあったのでせっかく寝れるチャンスだったり夕飯の準備をできるタイミングだったりしたのに普通に遊びに来てベタベタ喋って私の休む時間が全くなくてでも本人は全く気づいてなくて、子供はおもちゃ買ってもらったりしてとても喜んではいたけどもこっちの気持ちもわかってほしいなぁと思った。
また里帰りからすぐ戻ってきた時は母乳出ないのなどとても辛いことを言われたりミルクのやり方がわからないと言われたりとても心身ともに辛かった記憶があります。
今となっては家の子をとてもかわいがってくれてはいたんだろうけどもその時の私にしたらもう鬼にしか見えなかった。
【当時】
28歳・専業主婦




【強烈な思い出】
コロナ禍ということもあり、そもそも私と夫以外の人と関わることが少なかったと思います。
保育園になれるのも1ヶ月弱ほどかかりましたし、初対面の人に無邪気に懐くということはありませんでした。
私の両親(祖母・祖父)と会う時も年に数回くらいの出来事なので、なかなか覚えて懐くということはありませんでした。
203日一緒に過ごしたとしても、なかなか朝になるとリセットされるので、なんとかテレビやおもちゃで繋げば私以外の人とも一緒にいれますが、基本はお父さんお母さん以外だと泣くということがほとんどでした。
大変だとは感じていましたが、ご時世もありますし、やはり母がいいんだという安心感も持てましたので、しんどいよりかは可愛くて仕方なかったです。
【当時】
28歳・会社員